FC2ブログ

日本の名文・名文句


声に出して読み上げてみたくなる言葉を拾ってみました。リズミカルにテンポよく諳んじて下さい。そこには例え様のない心の活力が湧いてきますよ!

“知らざあ言って聞かせやしょう”・・・歌舞伎調で!!

「弁天娘女男(べんてんむすめめおの)白波(しらなみ)(白波五人男)」 歌舞伎・河竹黙阿弥

知らざあ言って聞かせやしょう。浜の真砂(まさご)と五右衛門が、歌に残せし盗人(ぬすっと)の、種は尽きねえ七里ヶ浜(しちりがはま)、その白波の夜働(よるはたら)き、以前をいやあ江の島で、年季(ねんき)勤(づと)めの稚児ヶ淵(ちごがふち)。
百味講(ひゃくみ)でちらす蒔(まき)銭(せん)を、当に小皿の一文子、百が二百と賽銭の、くすね銭(ぜに)せえだんだんに、悪事はのぼる上(かみ)の宮、岩本院で講中の、枕探しも度重なり、お手(て)長講(ながこう)の札付きに、とうとう島を追いだされ、それから若衆の美人局(つつもたせ)、こヽや彼処の寺島で、小耳に聞いた音羽屋(おとはや)の、似ぬ声色(こわいろ)で小ゆすりかたり、名さえ由縁(ゆかり)の弁天小僧菊之助たァ、
おれがことだ。

日本の文化・・・「競 馬」 


“日本古来の伝統競馬”

現代では、競馬と言えば馬券(勝馬投票券)を買って勝馬・着順を当て、配当金を得るギャンブルを思い浮かべる。 これは近代競馬で、幕末に横浜で外国人がイギリス式の競馬を催したのに始まる。
日本人の主宰による競馬は、1906年(明治39)、東京池上で行われ、本格的な競馬は1954年(昭和29)に日本中央競馬会が設立されてからである。 
一方、日本には伝統的な競馬があった。 既に奈良時代(八世紀初頭)、毎年五月五日に行われていた宮廷行事の競馬で、平安中期の1093年(寛治7)に賀茂の競馬へと承継された。 これは20頭の馬を左右2組に分け、二頭ずつ走らせて勝敗を競い、その年の豊凶を占うものだった。
鎌倉時代になると武士の間で騎射が盛んになり、馬上から弓を引いて豊凶を占う流鏑馬も行われた。 賀茂の競馬は京都で葵祭に次いで人気のある行事で、多くの見物人が群集した。 吉田兼好も見物に出掛けたものの雑踏に閉口し、又、競馬よりも木に登って見物している坊さんが落下しそうになる方を気にしている。 それほど混雑した。
室町時代に一時衰えたが、織田信長・豊臣秀吉が馬を献じて復興し、現在尚、この日に上賀茂神社で行われる。 この他各地に神事競馬が伝わっている。
何れも、走り馬には神が寄り憑いていて神意を窺うと言う意味がある。

日本の文化・・・「御柱祭」

“日本の祭の原像の一つ”   四月上旬~五月中旬

 長野県の諏訪大社で六年毎(申年と寅年)の春に行われる式年祭。 諏訪大社は上社と下社があり、夫々上社は本宮(諏訪市)と前宮(芧野市)、下社は春宮と秋宮(共に下諏訪)とから成る。
 この四つの宮の四隅に一本ずつ、計十六本のモミの大木(御柱)を山中から伐り出して立てる勇壮な祭である。 御柱は本宮一之柱が五丈五尺(16,6m)あり、以下五尺ずつ短くなっていく。
 上社では前年五月、八ヶ岳御小屋山で薙鎌打ち(選定)した御柱を3月下旬に伐採し、4月上旬から「山出し」をする。 そして本宮一ノ柱から一本ずつ籤で決められた組毎の氏子千人余りが、大社まで十数キロを「里曳き」する。
 途中には崖上からの「木落し」(四月上旬ごろ)、御柱を宮川の流れで清める「川渡し」があり、五月上旬に社頭まで曳行する。 最後に御柱の頂部を三角錐に削る「冠落し」ののち、定められた地点に「御柱建て」を行う。
 御柱祭は日本の祭の原初的な姿をとどめ、御柱については神殿の式年造営をなぞらえたもの、神の依代(招かれた神霊が宿るところ)、神域を示すものなど諸説が有る。

日本の名文・名文句


声に出して読み上げてみたくなる言葉を拾ってみました。リズミカルにテンポよく諳んじて下さい。そこには例え様のない心の活力が湧いてきますよ!

「平家物語」・・・琵琶で奏でる“盛者必衰”の叙事詩

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
娑羅双樹の花の色、盛者(じょうしゃ)必衰(ひっすい)の理(ことわり)をあらはす。
奢(おご)れる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。
たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。
遠く異朝をとぶらへば、秦の趙(ちょう)高(こう)・漢の王莽(おうもう)・梁の周伊(しゅうい)・唐の禄山(ろくさん)、
是等は皆旧主(きゅうしゅ)先皇(せんこう)の政にもしたがはず、楽みをきはめ、諌(いさめ)をも思ひいれず、
天下の乱れむ事をさとらずして、亡(ぼう)じにし者どもなり、
近く本朝をうかがふに、承平の将門(まさかど)、天慶(てんぎょう)の純友(すみとも)、康和の義(ぎ)親(しん)、平治の信頼(のぶより)、
是等はおごれる心もたけき事も、皆とりどりにこそありしかども、
まぢかくは六波羅の入道前(さきの)太政(だじょう)大臣平(たいらの)朝(あつ)臣(そん)清盛公と申しし人の有様、伝え承(うけたまわ)るこそ、心も詞(ことば)も及(およ)ばれね。

日本の文化・・・「恵 方」 


“最も縁起が良いとされる方位”   

 陰陽道で、その歳の干支に基づいて、最も縁起が良いとされる方位。その方角に年神がいると考えられた。「吉方(えほう)」とも書き「明きの方」ともいう。
中国から伝わった十干(じっかん)十二支(じゅうにし)が平安時代の陰陽道によって日本で独自に展開され、方角にも吉凶があるとされた。
 恵方は十干によって定まる。甲(きのえ)・己(つちのと)の年は東北東、乙(きのと)・庚(かのえ)の年は西南西、丙(ひのえ)・辛(かのと)の年は南南東、丁(ひのと)・壬(みづのえ)の年は北北西、戊(つちのえ)・癸(みずのと)の年は南南東が明きの方(恵方)で、年神が司っている。
 恵方と反対に不吉な方角とされるのが鬼門で、丑寅(うしとら)(北東)にあたる。鬼門と正反対の方角にあたる未申(ひつじさる)(南西)も裏鬼門と呼ばれて不吉とされる。日本独特の俗信である。
 方位の吉凶が平安時代以降盛んに言われた為、恵方でない所へ向かう時には一度別の方角へ行って方違えの後、目的地へ向かう事も行われた。
平安時代の半ば、「更級(さらしな)日記」の菅原(すがわらの)孝標(たかすえ)一行は上総(かずさ)(千葉県中部)から京都へ帰るとき、仮屋で十日余り過ごして方違えしてから出発している。
 江戸時代には正月に恵方詣でが盛んになったが、寺社参詣にとどまらず、外出や転居・旅立ち・商取引・縁談・家屋の建築など、生活全般に亘って言われる様になり、暮らしを縛る様にもなった。
 1872年(明治5年)に太陽暦が採用された時、恵方は迷信として公には排除されたが、今尚、方位を気にする人は多く、影響力をもっている。
プロフィール

ゼン住販

Author:ゼン住販
FC2ブログへようこそ!

リンク
最新記事
カテゴリ
天気予報

-天気予報コム- -FC2-
淡々と百人一首
    名言

    地球の名言 -名言集-

    検索フォーム
    QRコード
    QR