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日本の名文・名文句

声に出して読み上げてみたくなる言葉を拾ってみました。リズミカルにテンポよく諳んじて下さい。そこには例え様のない心の活力が湧いてきますよ!

“知らざあ言って聞かせやしょう”・・・歌舞伎調で!!

「弁天娘女男(べんてんむすめめおの)白波(しらなみ)(白波五人男)」 歌舞伎・河竹黙阿弥

知らざあ言って聞かせやしょう。浜の真砂(まさご)と五右衛門が、歌に残せし盗人(ぬすっと)の、種は尽きねえ七里ヶ浜(しちりがはま)、その白波の夜働(よるはたら)き、以前をいやあ江の島で、年季(ねんき)勤(づと)めの稚児ヶ淵(ちごがふち)。
百味講(ひゃくみ)でちらす蒔(まき)銭(せん)を、当に小皿の一文子、百が二百と賽銭の、くすね銭(ぜに)せえだんだんに、悪事はのぼる上(かみ)の宮、岩本院で講中の、枕探しも度重なり、お手(て)長講(ながこう)の札付きに、とうとう島を追いだされ、それから若衆の美人局(つつもたせ)、こヽや彼処の寺島で、小耳に聞いた音羽屋(おとはや)の、似ぬ声色(こわいろ)で小ゆすりかたり、名さえ由縁(ゆかり)の弁天小僧菊之助たァ、
おれがことだ。
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日本の名文・名文句

声に出して読み上げてみたくなる言葉を拾ってみました。リズミカルにテンポよく諳んじて下さい。そこには例え様のない心の活力が湧いてきますよ!

「方丈記」    鴨長明

ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし。世中にある人と栖(すみか)と、またかくのごとし。
たましきの都のうちに、棟を並べ、甍(いらか)を争へる、高き、いやしき、人の住ひは、世々を経て盡(つ)きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔しありし家は稀なり。
或は大家(おおいえ)亡びて小家(こいえ)となる。住む人もこれに同じ。所も変わらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中(うち)に、わづかにひとりふたりなり。
朝に死に、夕(ゆうべ)に生るるならひ、ただ水の泡にぞ似たりける。

{鴨長明は人の身と栖の儚さをテーマにしている。栖はこの世における人間の居場所のこと。その昔、日本の住居は木造故に災害時の弱さを長明自身経験しているが、敢て長明は一丈四方(四畳半)詰り方丈の庵に閑居し、儚さに徹する美学といえる。}

日本の文化・・・「巡 礼」

“各地に生まれた巡礼コース”

 聖地・霊場に詣でる巡礼は世界の主要な宗教に見られ、巡礼を果せば日頃の祈願が叶うと考えられた。
 キリスト教のエルサレム、イスラム教のメッカ、仏教ではブッダゆかりの四大聖地(生誕の地・ルンビニー、悟りの地・ブッダガヤー、初説法の地・鹿野苑、入滅の地・クシナガラ)があり、ブッダの死の直後から巡礼は行われた。
 日本人にとってインドは遠いが、真如法親王(高丘親王)は入唐中の865年(貞観7)に、インド巡礼を企てて途中で死去された。 日本人にはインドや中国の聖地に巡礼するのは困難なので、代わりに一定の宗教的な枠組みに基づく諸寺の巡拝が行われた。
 清和天皇は876年に譲位して、直ぐ山城(京都府)・大和(奈良県)・摂津(大坂府)の諸寺を巡っている。 これ以後は南都七大寺・熊野三山詣でが盛んだが、巡拝したのは貴族である。 西国三十三所巡礼が確定するのは、遅くとも1161年(応保1)の園城寺の僧・覚忠からである。 一番の青岸渡寺(和歌山県那智勝浦町)に始まり、三十三番の華厳寺(岐阜県揖斐川町谷汲)で終わる三十三の観音霊場巡りで、覚忠はこの巡礼に七十五日を要した。
室町時代には七観音や洛中三十三所観音の様な庶民にも容易な巡礼コースができ、益々盛んになった。
 更に、大師信仰に基づく四国八十八ヶ所が江戸時代に整った。 真言僧の信然は、延宝・天和期(1673~83)に四国霊場を十数回踏査して「四国遍礼霊場記」を著わし、空海ゆかりの霊場八十八ヶ寺を定めた。
 現在の区分で言うと、徳島県(阿波)二十四寺、高知県(土佐)十六寺、愛媛県(伊予)二十六寺、香川県(讃岐)二十二寺である。
 その一方で、京都に仁和寺の「御室八十八所」の様に寺内を一巡するだけで八十八ヶ所巡りができたり、「八十八体仏」を安置する寺も各地に生まれた。
 同時に、坂東三十三ヶ所・秩父三十三所・江戸三十三所・小豆島八十八ヶ所・佐渡八十八ヶ所ほか、各地に新しい霊場巡りが組み立てられ、こうしたことが四国八十八ヶ所への巡礼熱を煽って、文化・文政期(19世紀初め)には巡礼者はピークに達する。
 巡礼は、勿論信仰に動機付けられて行われるが、平安時代の天皇の時から遊楽も含まれていて、これは江戸時代も現代も変われない。 遍路が沢山行き交うのは農閑期と言う事もあるが、一番旅に快適なのは三月から五月である。
 白木綿の衣に金剛杖を手に同行二人(弘法大師と道連れ)と記した菅笠を被って巡り、寺では札を納め、教をあげて納経帳に寺の法印を捺して貰う。
 過っては四国巡礼には四十日前後もかかり、遍路達はこの苦楽の日々を重ねる中で確実に「救い」に近づいていると感じる事が出来た。

日本の文化・・・「風祭り」


“風への備えは国家行事”

 一年の実りを一挙に吹き飛ばし兼ねない風害から農作物を守る為、神に祈願する祭り。
普通台風が襲来する直前に二百十日前後に行われるが、正月・二月・四月・七月・八月に行う地方も有り、風害をおいかに恐れ、日頃から備え様としたかが分かる。
 六月二十八日から七月四日まで行われる竜田大社(奈良県三郷町)の風神祭(風鎮祭)は、国家的な風鎮めの祭事だった。
 伊勢神宮でも五月と八月に風雨の災害を受けずに五穀豊穣を願う風日祈祭が行われた。 民間でも毎年襲来する台風に対して、様々に備えた。
 近畿地方では二百十日の数日前から仕事を休み、身を潔斎して風籠もりや風日待ちをした。 このとき、村人は揃って神と主食を共同飲食して祈る。
 一方、関東では獅子舞によって、ふぃ偉人を悪魔祓い同様に追い払う事が行われた。
東北地方では男女二体の人形を作って村境へ送ったり、そこで焼き捨てたりした。 又、「風穴ふたぎ」と呼ばれる団子を家の神に供えたりした。
 中部・北陸地方では、家の棟木の両端に「風切り鎌」といわれる鎌を外向きに立てた。こうした風除けの祈願や儀礼は、現代では殆んど見られなくなったが、風除けのお札を鎮守から授かると言う最も簡便な祈願は今も盛んである。

日本の文化・・・「おわら風の盆」

日本の文化・・・「おわら風の盆」   

“風害の無事と豊作祈願”   9月一日~三日(前夜祭八月二十日~三十日)

 富山市八尾町の祭り。収穫を前にした稲が二百十日頃の台風の被害に遭わない様、踊りに巻き込んで送り出す風祭の行事である。 同時に先祖霊を祭る盂蘭盆の習俗が通底している。
 風の盆は哀調を帯びた三味線・胡弓・太鼓の音につれて歌われる「越中おわら節」にあわせ三日間、徹夜で踊られる(前夜祭は八月二十日~三十日)。
 「おわら節」と言うと昭和初期に流行した「鹿児島おわら節」(花は霧島、タバコは国分・・・)が有名だが、それ以前には「越中おわら節」が全国を風靡していた。 両者は囃し言葉の「オワラ」が共通するだけで、別の物である。
 「越中おわら節」は、「歌われよ、わしゃ囃す」という言葉で始まり、「あいや可愛いや、いつ来て見ても、たすき投げやる(オワラ)暇がない。 たすき投げやる暇あるけれど、あなた忘れる(オワラ)暇がない・・・」と、熱い恋の思いを歌っている。
 男踊りが直線的攻撃的であるのに対して、女踊りは優美でしなやかで対照的である。
各町から繰り出す踊り手と囃し方は、過っては聞名寺境内に集まって競演したが、現在は町の総合グランドで競う。 それが終わると、三、四人が一組になって深夜の町を流して歩く。
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