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日本の名文・名文句

声に出して読み上げてみたくなる言葉を拾ってみました。リズミカルにテンポよく諳んじて下さい。そこには例え様のない心の活力が湧いてきますよ!

“知らざあ言って聞かせやしょう”・・・歌舞伎調で!!

「弁天娘女男(べんてんむすめめおの)白波(しらなみ)(白波五人男)」 歌舞伎・河竹黙阿弥

知らざあ言って聞かせやしょう。浜の真砂(まさご)と五右衛門が、歌に残せし盗人(ぬすっと)の、種は尽きねえ七里ヶ浜(しちりがはま)、その白波の夜働(よるはたら)き、以前をいやあ江の島で、年季(ねんき)勤(づと)めの稚児ヶ淵(ちごがふち)。
百味講(ひゃくみ)でちらす蒔(まき)銭(せん)を、当に小皿の一文子、百が二百と賽銭の、くすね銭(ぜに)せえだんだんに、悪事はのぼる上(かみ)の宮、岩本院で講中の、枕探しも度重なり、お手(て)長講(ながこう)の札付きに、とうとう島を追いだされ、それから若衆の美人局(つつもたせ)、こヽや彼処の寺島で、小耳に聞いた音羽屋(おとはや)の、似ぬ声色(こわいろ)で小ゆすりかたり、名さえ由縁(ゆかり)の弁天小僧菊之助たァ、
おれがことだ。
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日本の文化・・・「土用」  7/24

“丑の日には滋養食で体力回復”    今年は8月も

 雑節の一つ。中国ではあらゆる事象を陰陽五行説に当て嵌めて理解した。1年365日も五分して292日を春(木)・夏(火)・秋(金)・冬(水)に配し、残る73日を土用として各季節の終りに18日ずつ置いた。
 その為土用は立春・立夏・立秋・立冬の前に四度あるが、一般には生活に密着した行事の多い夏の土用を言う。
 土用に入りは7月20日頃で、土用の三日目を土用三郎と言い、この日の天候によって農作物の豊凶を占った。 又、一年で一番暑い時期なので、健康に配慮した習慣が長い間に色々出来上がった。 

特に土用に丑の日に「う」の付く物を食べると夏痩せしないとか疫病除けになると言われ、鰻やうどん・瓜・牛・馬の肉などを食べた。
 現代でも土用の丑の日には、鰻の蒲焼が持て囃されるが、既に「万葉集」では大伴家持が「石麿に我物申す夏痩せによしといふものぞ鰻とり食せ」(石麿に助言しよう。夏痩せによいというから、ウナギを食べろ)と、夏の栄養食とされていた。
 もっとも、当時はぶつ切りにして、塩を振って食べたと思われる。開いて焼く蒲焼は江戸中期に始まった食べ方である。
 土用には土用灸をすえたり、丑湯につかった。又、海や川で水浴びすると夏病みしないとも言われた。体に過酷な土用を乗り切る知恵が様々工夫された。

大江戸の共生とは

“江戸の庶民生活に学ぶもの”

7月16日
江戸時代の「しぐさ(思草)」と言う言葉、現代流に言うアクションです。この江戸しぐさの「しぐさ」を、漢字にすれば「思草」と書きます。“思”は思案・思慮・思想の意味で、“草”は行為・アクションの事です、“その言い草は何だ”とか言う時の“草”と同じ使い方です。
つまり「思草」とは、その人が培ってきた考え方や思いが、その場その場で咄嗟に表れる「心構え」そのものです。日頃の心構えは、目つき・表情・物の言い方・身のこなし方などに、恐ろしいほど其の儘出て仕舞うものです。
では、前日まで上述したものに準じて江戸庶民の哲学とも言えるアクションを学習しましょう。

『お付き合い・人間関係』

封建時代といわれる江戸時代。しかし、江戸の町衆たちは見知らぬ人も仏の化身と考え、対等な付き合いを心掛けた。
礼儀正しく、しかもプライバシーを侵さず、良い市民生活が定着していた。江戸の町はルールを守ればとても住みよい町だった。現代にも通じる人間関係の達人たちの知恵から学ぶものは多い。

「不届き・我が儘しぐさ」/他人はどうなっても、自分は自分と言う考え。しかし、こうした何が何でも、他人を押しのけても、と言う自己中心の根性は嫌われます。
一人だけでは生きていけない。何も出来ない。大勢の人に助けられているから今日があると言う感謝の気持ちが大切と諭す時、こうした言葉の出番がある訳です。

日本の文化・・・「祇園祭」  7/14

“都の疫病蔓延を一掃する祭り” その2

 祇園祭は、17日の山鉾巡行がクライマックスであるが、それに先立って7月1日から市中各所で笛・太鼓による祇園囃子の稽古が行われる。
 二日の「籤取り」で山鉾巡行の順番を定める。 10日から「鉾立て」が始まり、「稚児の社参り」と祭事が続き、14日~16日の宵山には終夜祇園囃子が奏でられ、各町の山鉾も完全に仕立てられて、見物人や宵宮参りの人で賑わう。
 氏子の家々では、宵飾り(屏風祭り)と言って、我が家に秘蔵している屏風や、宝物を玄関先に飾る。 17日からが山鉾巡行で、午前9時に四条烏丸から22基の山と7基の鉾が繰り出し、四条通り、河原町通り、御池通りを巡行する。先頭は疫病の退散に効験のあった「長刀鉾」と定まっている。 他の鉾は稚児人形だが、長刀鉾だけは生稚児が乗る。稚児には祇園祭の要となる儀礼が多い。
 祇園祭の神事の中心は、山鉾巡行の日の夕刻、3基の神輿が四条の御旅所に渡御する「神幸祭」と、7日後の24日に氏子区域を回って神社に還御する「還幸祭」である。
 神輿の神幸に疫病退散を願った祇園祭の原型が生きている。 日本では、夏に疫病がしばしば大流行した。 祇園祭は悪疫退治を祈願する都市型の祭りとして、室町末期から江戸時代にかけて、全国各地に祇園社(八坂神社)が勧請され、祇園祭が広まった。
 その多くは経済活動の盛んな都市である。福岡市の祇園山笠、北九州市小倉祇園太鼓、津島市の津島祭など、全国各地に祇園祭は根付いている。

日本の文化・・・「祇園祭」 その1  7/13

“都の疫病蔓延を一掃する祭り”

 京都市東山区の八坂神社(祇園社)の祭り。 「祇園会」「祇園御霊会」ともいい、過っては陰暦6月7日から14日に掛けて行われた。
 869年(貞観11)に疫病が流行した時、牛頭天王の祟りであるとして、6月7日に諸国の数に合わせて66本の鉾を立てて祭りを行い、14日には大内裏東南の神泉苑で御霊会を営んだ。 これが祇園祭の起源であり、876年に祇園社を創建して牛頭天王(スサノオノミコトに付会)を祭った。
 鉾に対して、山が加わったのは998年(長徳4)である。 南北朝時代以後は財力を蓄えた京都市民が各町から山鉾を出す様になった。
「山」は、四輪車の台上に人形や様々な作り物を立てたり、二階屋台にした物である。
「鉾」は四輪車に二階屋台を組み上げ、屋根の上に様々な鉾を立てている。
 応仁の乱の時中断したが、1500年(明応9)に復活後は町衆の手で祇園祭は執行された。 彼らは金融業などを営む商工業者で、日蓮宗徒が多い。 豊な財力を背景に、南蛮渡来の豪奢なゴブラン織やペルシャ毛氈などの装飾品で山鉾を飾り、これが現在にも伝わる。多くが重要文化財である。
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